昭和51年01月31日 朝の御理解



 御理解 第80節 
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。

 信心を頂いておりましても、矢張り年よりをま粗末にするというか、疎かにする人がやっぱあります。信心はなかっても、大変年寄りを大切に取り扱うというか、年寄りを大事にする人があります。確かに自分の考えで、先にこの世に生まれて来たのではない。神様の御都合でこの世に先に生まれて来ておると。それだけ余分に早く世の役に、お役に立って来たのであるからと。この役に立って来たと言う事が、何かもう家のじいさんばっかりは役に立っとらんという人も、中にはあるです。
 もう家の婆さんこそほんなもうこの様なごくつぶしだったですよと言う様な人もやっぱあるです。ですからですからこれは何時の御理解かに頂いたように、例えどういうなら頑固爺であるとか、こんにゃく婆と言われるような人でもです、そのこんにゃく婆の御用を勤めて来たんだと言う事です。頑固なら頑固爺の御用をやはり勤めて来たと言う事です。ですからここは信心の世界に入らなければ、これは絶対分かり得ない所です。天地の親神様のお計らいで、言うならば頑固爺の役を勤めて来た。
 天地の親神様の働きの中にあって、まあ言うなら嫁子なら嫁子をいじめる事だけしか知らんという婆さんもやっぱあるのですけれども、そういう言うならば神様の大きな筋書きのお芝居の中で、そういう悪い婆さんの役を勤めて来たと言う事です。ですから信心させて頂く者がです、その頑固爺さんのおかげで、ね、それを素直に受ける事を体得したり、そのこんにゃく婆と言われるような悪いお婆さんのおかげで、嫁さんが大変信心が進んだというのですから。
 そういう意味で、矢張り大事にしなければいけないと言った様な御理解を頂いたが、確かにこれは、本当に、しかも本当の信心が分からなければ、年よりを大事にすると言う事は出けないのじゃないだろうかと、こう思います。ね。中にはやっぱ本当に大事にしなければおられないという可愛らしいお爺さんやらお婆さんもあります。けれども何とはなしにこれは年より、若い者の方から言うても、まあ年よりを大事にしないという人もあります。そこで私はこう思うのですけれども。
 まあお互い折角こうして一年一年、年を取らせて頂く訳で行くのですから、どうしても一つおかげを頂きましてから、ね、それこそ一年一年有り難うなって行く年寄り。本当に大事にしなければおられない年を、の取り方をさせて頂くことに、ね、今日は当然私共も一偏は年を取らなければなりません。年寄りにならなきゃなりません。ね、ですから本当に一つ若い時から、本気で一年一年有り難うなっ行くという信心を、言うなら自分が年寄りになって、若い者から大事にしなければおられない。
 それはどう言う事かと言うとね、神様から大事に取り扱うて頂く年寄りにならなければならんと言う事です。だから今日の御理解は、年寄りを大事にせよと。これはもう信心しとれば、色々深い意味が分かれば分かるほど、どんなに頑固爺であろうがこんにゃく婆であろうが大事に致します。しなければならんように教えられておりますから。ね、けども、私共がそういうならこんにゃく婆やら。
 頑固爺やらにならんで済む、反対にそれこそ一年一年有り難うなって来るという年寄りになって参りませんとです、ね、若い者に大事にされない。いわゆる神様に大事にされる、大事に取り扱うて頂くといおかげを願わせてもらわなければなりません。昨日研修の時に、ああ、色々昨日の御理解を研修させて頂いて、まあ若い時から熱心に信心をなさった二人の夫人の事を例に申しました。一人の方は非常に元気な、素晴らしい信心を二人ともされましたけれども一人の方は。
 おかげを頂くと言う事においては、もう実に何というか、おかげのコツと言った様なものを把握して行かれる生き方の御信心でした。ほれはもうその方に例えば何十年間合楽でおかげを頂いて、もう椛目の時代からですから。もうおかげ話どんさすんなら、もうそれは素晴らしいおかげを頂いておられます。もう人間関係の事金銭のお繰り合わせの事、または病気体の事です。ね、そういう時にそのおばあさんが何時も言われる事は、ね、本当にこんくらいなおかげならばね。
 私共が若い時に若いもう少し若いなら、あん時のごたる信心すりゃおかげ頂く事は分かっとるばってん、もう体が言う事を聞かんと、こう言われるです。ね。若い時にはそれこそ例えどういう難儀な問題でも、難儀とは感じなかった。合楽当時の椛目に参って来なさい、おかげ頂くと人にも、その言えれるだけの物を持っておられた。自分もまたそれなりに抜いて来られた。そして本当に見事におかげを頂いて、今日ですけれどもです、ね、悲しい事には、もう五体の方が言う事を聞かんようになって来た。
 本当にこういう信心をすりゃあ、おかげ頂く事は分かるけれども、分かっとるてもう体験から。だから、そういう例えば生き方ではです、いわゆるそのおばあさんが年をとって、五体が言う事を聞かんごとなってからです、ね、ね、こういう信心では愈々いけないなと言う事を、昨日は話し合った事でした。どんなに熱心にいわばおかげの頂く、頂き上手と言う様な信心では、ね、これは言うなら一年一年有り難うなりません。
 おかげを頂いたて、その事だけは有り難いのですけれども、悲しい事にはいわゆる信心を頂いてなかったからです。一人のお年寄りの話は、ね、もうそれこそ若い時から様々な、勿論おかげも受けて来られましたけれども、もう教えを頂くと言う事信心を頂くと言う事に自分の根性を掛けられたんです。ね、そこにはです自分のおかげだけではなくて、自他共に助かって行く道が開けておると言う事です。言うならば一年一年確かに有り難うなって行きよりなさると言う事です。ね。
 根性のしっかりした方ですから、ね、あれがもし信心がなかったら、言うならばひょっとするとコンニャク婆さんにならっしゃるタイプの方じゃったかも知れんです。根性が悪い方に向けられるから。けれども有り難い事にですそれこそ、一年一年その言うならば信心を頂く喜びで自分の、ま言うならばアクとでも申しましょうか。ね、改まりと言う事にも磨いて行くと言う事にも、教えを頂くと言う事に一生懸命の、ま合楽で第一人者と思われるです。本当に教えの実践者として。
 成程どういう人でもです、教えの実践をするなら、ね、確かに一年一年有り難うなるという事実です。その事実には、勿論おかげも伴うて来ると言う事です。これはどうでも本気でねおかげを頂くコツ、それはあります。ね、けれどもおかげを頂くコツがいかに生き生きとして、元気にそれこそ人のたまがるような信心が出けましても、ね、信心を頂いて行かなかったらです、私は、言うならば人に大事にされるというか、神様に大切にされるという事が無くなって来ると思うです。
 神様に大切にされる年寄りにならせて頂かなければならんと言う事です。そこでこの事も昨日話した事でしたけれども、これは久富重雄さんが昔頂かれた御教えの中に。ね、素直にて雲の上まで登る道ありと。何事も素直心の一つにて、雲の上まで登る道ありと。だから、私はこの御教えを改めて昨日、ま研修の時に皆さんに聞いて頂いた事でした。これは、素直であるという、一般でいうあれではないて。ね。
 信心をさせて頂く者がです、素直に聞き、素直に実行すると言う事なのですと言う事です。ね、教えを素直に聞く。そして頂いたその教えをです、素直に実行する。これならもう絶対、雲の上までも登る道が開けて来るでしょう。考えて見ると素直に聞いていない。いや、素直に聞いたごとあるけれども、素直に実行してない。これではねいわゆる一年一年有り難うなって来ると言う事にならんのです。そして結局金光様の御信心はここに極まるという事になるのです。
 世に多くのお道の信者、信者信奉者がです。ね、いわゆる長年に渡って信心をさせて頂いて、若い時から年を取るまで、言うなら信心をさせて頂いて、おかげもずいぶん頂いて来たが、振り返って見ると、残っておるものは何もない。ね、自分の心の中に有り難い、勿体無いというものも育ってない。おかげは頂いて来た。けれどもおかげだけでは助からん。ね、口を開けば皮肉を言う。口を開けば不平を言う不足を言うと。五体が不自由になりゃあ、矢張り自分が不自由ですから、ね。
 若いモンがいっちょん、その思うごつしてくれんとか、大事にしてくれんとかと言う様な、不足が出るような事では駄目だと。ね、信心のお徳を身に受けて、神様に大事にされると言う事になればです、財の恵みにも恵まれましょう、健康の恵みにも恵まれましょう。自分の周辺の人間関係の上にも恵まれましょうと。そういう恵まれた中に、ま有り難い、勿体無いの生活がいよいよ出来て来る。そういう人を私は神様に大事にされる人だと、今日は聞いて頂きました。ね。
 ほれこそもう人の真似ん出来んごたる信心をしてから、神様を揺さぶるようにして、ならおかげを頂くというコツを、ね、覚えたとてもです。その信心はねどうせ段々年を取って行く体が弱ってくる。もうそういう信心は出けなくなって来る。言うならば心一つでおかげの頂けれる心を愈々、大切に大事にして行かなければいけない。若い時にはねただ、そのおかげを頂くと言う事に、ただ一生懸命にな事が出けます若いから。ね、それは思いきってお供えの一つもさせてもらやあ、こげんとでスパッとおかげ頂く。
 こげん時はもう水の一つも被ってからそれこそ夜、夜中でもないようにしてお参りをすんなら、必ずおかげを頂く、と言う様な事でおかげを頂かれたんではです、有り難くなれないです。そん時は有り難っても、ね、愈々私は素直に教えを頂いて、素直に本気でそれを実行する事です。決してそれもんなら見やすい事ではありませんけれども、起きて来る全ての事柄の中に、素直に見る素直に頂くと言う事は、難しい事ですけれども、ね、そういう信心を繰り返して頂く内にです。
 その事が有り難くなって来る、楽しゅうなって来る。ね、私は今日は、ね、いつも皆さんが、も空に出ておられるだろうと思う。ね、何事も素直心の一つにて、雲の上までも登る道が開けて来ると言う事をです、ね、ただ人間な素直なかじゃ、素直なかじゃだけじゃなくて、素直に聞いて、素直に実行すると言う事にならなければ信心の血に肉になりません。ね、信心が愈々血肉になって来る時に、ね、嫌でも一年一年有り難うなって来るという有り難いものが身について来るのです。ね。
 勿論それには、ね、いわゆる神様に大切にされるのですから、お徳を受けるのですから、ね、人間の愈々幸せの全て、条件の全てが足ろうて来るようになり、その周囲の有り難い、勿体無いの中に住まわせて頂く事が出ける。そういう信心。そういう年よりを目指して頂かなければならない。これはもう若い時からどうでん、ここに焦点を置いた信心じゃなからなければいけないねと言うて。
 まあ昨日も皆で話した事でございますけれども。ね、その事を今日は聞いて頂いて、御理解80、年よりを大切にしなければならない。それは先に聞いて頂いた様に、それはどういう年寄りでもです、世のお役に立ってきとる。いや家の爺さんな世に立ってないという事じゃない。家の婆さんは返って世の中のごくつぶしじゃったと言う様な人もないじゃない。ね、けれどもそういう頑固とか灰汁とかと言った様なです役を一生掛って勤めて来た人なのです。そういう意味でそう言う様な事が。
 所謂信心で分からせて頂くとです、ほんに成程どんな人でも大事にしなければいけないなと言う事が分かって参ります。けれども私は今日は、ね、私共も矢張り年を段々取って行かなければなりません。ね、本当に年を取らせて頂いてね五体は若い時の様にはいけませんけれども心は愈々、ね、座りながらでも寝ながらでも、自他共の幸せの事が祈れれる。喜びの生活に入って行く事が出ける。神様から大切にされる私共にならせて頂く信心を目指しての信心でなからなければ、私は昨日の御理解を頂いて。
 改めてそこの着眼点をが、を間違えますとです、ね。おかげ頂くけんおかげを、おかげを頂くけん。一生懸命参りゃおかげ頂くけんだけで、一生懸命参ったり拝んだりした所でです、そういう内にいつの間にか年を取って来てから、そういう一生懸命信心が出けんごとなって来るとです。ね。いわゆる不平不足が先に出るようになって来る。本当にもう一偏若返りたいと言うても、それは無理な事なのですから。若い時にここの所に着眼しての信心。いわゆる本当の信心生活に入らせて頂かなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。